2008年 5月17日 14:00
喫茶店でアイスコーヒーを飲みながら甚五郎は険しい顔をして新聞を読んでいた。
紙面のトップには例のマンションで起きた事件の解決を告げる内容が踊るように書かれていた。
事件内容や犯人、動機など全てが甚五郎の捜査通りに書かれている。
甚五郎からすれば間違いのない捜査や物証で捕まえた犯人ではある。
何よりシラを切っていた犯人を物証で黙らせ自供をも得たのだ。
だが……。
苦いアイスコーヒーにも唸っていると喫茶店のドアを開く音がした。
振り返ると見覚えのある青年がこちらに向けて頭を下げていた。
しかし一緒に現れた人物には見覚えがなかった。
一人は周防健太郎だった。
解決した事件で釈然としない様子を娘の由紀が周防に伝えたらしく「新聞でわかる範囲なら」と今回話をすることになったのだが……。
もう一人はさっぱり見当がつかなかった。
暑くなりそうな季節にもかかわらず黒の長袖シャツに黒のパンツスタイル。
後ろに髪を束ねているが女性ではなく男性。
誰だろうと思っている甚五郎の近くに二人はやってきて「お待たせしました」と挨拶をしてきた。
甚五郎の様子を見て周防は黒シャツの男の紹介をしてくれた。
「僕の大学のOBの先輩で真砂綸太郎さんです」
「申し遅れました。真砂綸太郎です」
会釈をした真砂は周防とは印象の違う青年だった。
年齢の違いもあるだろうが切れ長な目が感情を見せなくしているせいかもしれない。
「周防君から話を聞きまして。私は都市伝説を取り扱う雑誌のライターをやってましてね。今回の事件についてもご協力できる事があるんじゃないかと思いましてね」
そう言いながら出してきた名刺は濃いグレーに赤字で名前を抜きあがらせた普通では見ないような物だった。
「取材に来たというわけではありませんのでご安心ください」
甚五郎が「取材ならお断りだ」と言おうとしたのを察知したのか先手を打つように告げてきた。
ウェイトレスが来ると二人ともアイスコーヒーを注文し、周防だけ冷たい水を一口飲んだ。
「それでお義父さん、今回の事件なんですけど。僕は紙面を読んだ限りでは犯人の自供もあるし、状況も見るとおかしなところは感じないんですが」
周防はあらかじめ新聞を読んできたのか内容に不自然な部分を感じない風だった。
テーブルに置かれた新聞を真砂が手に取りざっと目を通しているのを横目に「実はな」と甚五郎が口にした時だった。
「本当の動機がこれであってるのか……ということじゃないですか?」
真砂はまた甚五郎が思っていることの先手を打つように口を開いた。
切れ長な目は鷹のように鋭く甚五郎を見ている。
「よく解ったね」
視線に押し負けずにでるのがその一言で精一杯だった。
「実はですね。今回の事件がニュースで取り上げられた時に都市伝説絡みということで私の方でも各所に取材に回ってたんですよ」
先ほどと打って変わって人懐っこい笑みを浮かべて小さな黒い革鞄から手帳を出して開いていた。
その手帳には几帳面な字がビッシリと敷き詰められていた。
そして犯人の名前も……。
「各所って……犯人の名前まで書かれているじゃないか」
「ご安心ください。警察関係者に聞き込みをしたわけではありません。私の集めた情報から元に推理した結果で書いたものです。偶然合ってただけですよ」
それにしてもよく情報を集めたものだ。
捜査時に多少なりとも事件関係者に話した内容をかき集めたのだろうが、ライターというのはここまで細かく情報を手に入れられるのかと感心してしまう。
「動機なら大よそですが解りますよ。その前に私の推理におかしなところがないかだけ聞いていただければありがたいのですが」
「推理に?」
「ええ。ただ間違っていれば『違う』とだけ言っていただければ結構です。そうすれば捜査内容を話したことにもならないでしょう」
全てにおいて先手を打たれることにある種の不気味さを覚えながら甚五郎は僅かに頷いてみせた。
2
2008年 5月17日 14:30
周防と真砂のアイスコーヒーが届きウェイトレスが去ったのを見て真砂は口を開いた。
「まず今回の事件ですが、都市伝説のベッドの下の男に見立てられて殺害されていました。ここで浮かび上がってくる奇妙な点があります」
ストローで何も入れていないアイスコーヒーをかき混ぜながら真砂は続けた。
「一つは犯人はいつ被害者をベッドの下に入れたのか。そしてどうして斧を抱えさせたのか」
「ふんふん。まずはそこに目がいきますよね」
周防はアイスコーヒーを飲みながら相槌を入れる。
「各所に回り情報を得たのですが、被害者が死亡した時刻はおそらく9日の22時。しかしその時間には部屋の住居人の新藤と友人の織部がいた」
甚五郎も頷くとそれを確認してさらに続けた。
「となると考えられる可能性としては、多野をベッドの下で発見したという織部の証言が嘘だという可能性です」
「でもそれはないでしょう。嘘をついたところでその後警察の人が入るまでに被害者を運び込むのは不可能じゃないですか?」
「その通り。では他の可能性としては発見した時点では死んではおらず、部屋にいた二人が出て行った後に誰かが忍び込み被害者を殺害する」
「じゃあ被害者はあらかじめ忍び込んでいたという事になりますよね」
「だがそれも被害者が鍵を持っていない以上不可能。さらに言えば二人が部屋の前から携帯で警察に連絡を入れないとも限らない。そんな不確かな状況で殺害に及ぼうとする事のほうが危険だ」
「そうですよね」
甚五郎は二人だけで進む推理の展開にただ頷くことだけしかできず、アイスコーヒーを口に入れた。
「なら疑ってかかるのが死亡推定時刻。この死亡推定時刻に誤認があったと考えるわけです。22時に死亡したのではなく、しかもそれ以降でないとすれば」
「おのずと22時以前に死亡した事が考えられますね」
「そう、被害者は22時以前に死亡した。そして部屋には新藤、織部の両名が入る前に入れておけば問題は無い。ここまでで間違いはありますか?」
真砂の問いに一言だけ「いや、合ってるよ」とだけ答えると真砂は軽く頷く。
状況を整理するだけでそこまでに辿り着く事には感服した。
論理的な展開をする様は周防と若干だが重なる部分が見てとれた。
「犯人は何らかの方法で死亡推定時刻を遅らせ、死体を部屋の中に入れた。となると部屋の鍵の密室は解決できるが、今度は新たな密室に直面します」
「新たな密室ですか?」
「君は現場に行っていないから解らないだろうけど、予想はつくんじゃないかな?」
「視覚密室ですかね」
「そう。私があの現場に行った時にも住人とすれ違う事がありました。つまりいつ出くわすか解らない住人たちの目を避けて被害者を部屋に入れなければならない」
甚五郎も思い出していた。
管理人室に行った時に住人らしき女性とすれ違った事を。
「ここで解決できる一つの方法は解るかい、周防君?」
「すぐに思いつくことであれば被害者を部屋の中へ招き入れるという方法ですかね」
「新藤亜里沙が被害者を、織部と会う前に部屋の中へ招き入れて殺害する。そうすれば確かに問題なく視覚密室もクリアだ」
「でもそれは無いと思うんですよ」
「ほう」
「仮に呼び込んで殺害したにしても自分の部屋で死体が見つかるリスクは大きすぎます。真っ先に疑われるような状況を作るかという疑問が湧いてしまうんです」
「確かに君の言うとおりだよ。疑われる状況を作る事にメリットがそれほどなさそうだ。しかし逆効果を狙い一見怪しいという状況を作り出して圏外に逃れる方法もある。現にアリバイはできているわけだからね」
「まぁそういう考えができなくもないですけど、それじゃあどうやってアリバイを作ることができたのかという疑問は消えませんよね」
「君と話をしてるとスムーズに話が進むから安心できるよ」
口角を上げて笑みを浮かべるが切れ長な目は以前そのままの真砂が本心からそう言っているのかどうかが甚五郎には読み取れなかった。
「今回浮かび上がった二つの疑問。視覚密室を突き崩すこととアリバイを作る事を一度で突き破る方法。これが犯人へとそのまま繋がるわけです。その方法は簡単だ」
真砂は自分の手帳を手にしてあるページを開き前にかざして口を開いた。
「死体を冷やす場所を確保でき、視覚を気にすることなく死体を運び込めたのは佐藤雄大以外にはいません」
3
2008年 5月17日 15:00
アイスコーヒーの中の氷が溶けてカランと音がしたのを皮切りに真砂は先を続けた。
「佐藤は22時以前の段階で被害者の首を絞め、自分が配送で用いているクール便のコンテナに詰め込みます。コンテナ内は届け物の温度を保つためにかなり低い温度設定になっています。そこに入れることによって死亡推定時刻を遅らせることを可能にした」
甚五郎が頷くのを確認すると真砂は続ける。
「そしてあらかじめ用意した箱か何かに被害者を移し、配送を装い新藤の部屋へ向かう。合鍵で部屋を開けてベッドの下に被害者を押し込めばアリバイ、視覚密室も一気に突き崩す事が可能になる」
「確かにその方法なら怪しまれる事なく被害者を部屋の中へ運ぶ事もアリバイを作る事も可能ですよね」
「しかし佐藤にも不慮の事態が起こったんじゃないかと私は思うんです。例えば殺したと思った被害者がコンテナ内で息を吹き返したとかね」
射るような視線で真砂は甚五郎を見ていた。
どこまでも見抜いていると言わんばかりに。
「そして被害者は凍えそうな身体をかばうようにして何か羽織るようにしたのだろうと」
真砂の推理は当たっていた。
死因が衰弱死だったのもコンテナ内で体温低下により死亡したという事。
体温低下を抑えようとコンテナ内にあった毛布を羽織ったのであろうという事。
被害者の爪の間から発見された産毛のようなものは毛布の毛だった。
甚五郎が佐藤に突きつけた物証はまさにその毛布の繊維だった。
「そこで第一の疑問の斧を抱えていた理由もわかります。羽織っていた状況を撹乱させるには斧を抱えさせてベッドの下に入れてしまえば、都市伝説の見立てになる。その効果を狙ったのだろうと。いかがですか冬馬刑事」
「君の言うとおりだよ真砂君。犯人の佐藤もそのように話していたよ」
「ありがとうございます」
真砂が軽く頭を下げると甚五郎は残っていたアイスコーヒーを飲み干した。
「それにしてもよく解ったものだ。君の推理力には脱帽だよ」
本心から甚五郎が口にすると何故か周防が誇らしげに笑みを浮かべている。
「ウチのミステリー研究会の元部長ですから。僕も目指すは先輩だと思ってたりで」
「それが本心かどうかは解らないけどね。そのままの意見として受け取っておくよ」
先ほどまでの切れ長な目が線のようになり笑みを漏らしているところを見ると、真砂は本当に喜んでいるのかもしれない。
それも一瞬のことですぐに目が元に戻ると真砂は再び口を開いた。
「そこで動機についてですが、この紙面に載っていることは佐藤が自供したことですか?」
「そうだ。街中で偶然発見し、恋人へのストーカー行為を再度行おうとしている事が解ったと。それで口論になり結果殺害したと自供はしていたが……」
甚五郎が言葉を濁すとアイスコーヒーに口をつけていた周防が不思議そうな顔をしている。
「何か気になるんですか?」
「う〜ん……。確証というわけではないのだが、君たちに笑われるかもしれないが刑事の勘というやつでね」
しかし二人とも笑ってはいなかった。
刑事の勘というものを馬鹿にする気配など微塵も出していないことに甚五郎は少しだけ自分を誇らしく思えた。
「しかし周防君が解らないとなると、気のせいだったのかもしれんな」
甚五郎が頭をかくと「そうでもないですよ」と真砂は口を挟んだ。
「考えてもみてください。佐藤が自供した内容だと突発的な犯行になってしまう。しかし突発的な犯行で斧まで用意しますか?」
甚五郎は頭を撃ち抜かれる思いだった。
まさに得心の行かなかった部分がそれだったのだ。
「ああ、そうか! 計画殺人である前提じゃなきゃ斧の準備まではないですよね!」
周防も同じだったらしく虚を突かれたという様子で言葉を発している。
「斧を準備していた以上、計画的だったと言わざるを得ない。しかしあえて自分も捜査圏内に入れるような危険を犯してまで見立てる必要性。不慮に起こった被害者の行動をカムフラージュできたのは偶然の一致だと私は考えます」
「それじゃあ動機というのは……」
周防は脳内で必死に論理を組み立てていた。
甚五郎も同じく考える。
その様子を見ながら真砂は口を開いた。
「私が考える真の動機。それは……」
4
〜某日某所〜
「怖〜い!」
「でしょ!? これから怖くてベッドの下とか覗けないよね〜」
女たちは酒の勢いと都市伝説の恐怖話で悲鳴ともつかない声を上げながら騒いでいる。
「あ、でもこの話って続きがあるよね」
先ほどまで都市伝説を話していた女とは別の女が言うと「え? 嘘! 私知らな〜い!」と口々に回りも騒ぎ出した。
バトンタッチとばかりに続きを知る女が口を開き始めた。
「何でもベッドの下にいた男は死んでたらしいの。それで警察が捜査した結果、部屋の住人の女の子の彼氏が犯人だったんだって」
「それでそれで?」
「死んでた男は女の子をストーカーしてたらしくて、彼氏はそれが許せなくて殺したって言うんだけど、それって変だと思わない?」
「えどこが?」
考えるともせず、すぐに先を促すように女たちはせっついた。
「だって殺した後に彼女の部屋に死体を置いちゃったら自分だって疑われるかもしれないじゃない?」
「そう言われればそうよね〜」
「でもね、それにはちゃんとした理由があったんだって」
女がそこで言葉を切ると、聞いていた者たちはみんな身構えた。
「その動機を不審に思った刑事が彼に詰め寄ったらしいの。そうしたらようやく本当の動機を口にしたんだって」
「……何て言ったの?」
『彼女の部屋で死体が見つかれば、怖がって彼女は僕と住む決意をしてくれるに決まってるじゃないですか』