冬馬甚五郎は雪深いT**大学へと到着した。車を大学脇に停車させるとT署の警官が駆けてくるのが見えた。窓を降ろし、警官に口を開こうとしたが、険しい顔をして開いた窓から顔を滑り込ませてきた。
「あんた、この大学の関係者か? 免許証見せなさい」
どうやら不審者と思われたらしく、身分証明を求めている。甚五郎は無言で警察手帳を提示すると、警官は慌てて窓から顔を抜き出し、姿勢を正して敬礼した。
「ほ、本庁の方とは存じ上げませんで、失礼しました!」
「失礼ついででいいから、車をどこかへ停めておいてくれないか?」
「は、はい! 喜んで!」
甚五郎は車から大きな体を縮こめながら出て、警官の肩をぽんとたたいた。警官は弾かれたように車に乗り込んだが、それを留めて甚五郎は忘れていたことを聞いた。
「現場はどこになるのかな?」
「は、このまま真っ直ぐ校舎に向かわれて、突き当たりを左に曲がり、真っ直ぐ行かれますと第二校舎が見えてきます。さらにそこから……」
「もういい、事務で聞いてみる」
まだるっこしい説明を聞くより、そちらの方が早いと思い、甚五郎は車に背を向けた。車がエンジン音をならすと中から警官が大声を上げているのが聞こえた。
「も、申し訳ありません! 駐車場は現場のすぐ脇でしたので、お乗り下さい!」
呆れて口が開けなかった。日本の警察もそろそろ危ないのかも知れない。こんな事で捜査は大丈夫かと心配になってくる。険しい顔になりながら車に戻ると警官は今にも泣きそうな顔をして車を発車させた。
*
駐車場に到着し、車から降りると運転してきた警官は「では、失礼します」と敬礼とともに言い、足早に去っていった。持ち場に戻ることではなく、甚五郎から一刻も早く離れたいが為にそうなったのであろうと、甚五郎自身は感じていた。
駐車場から北に少し進むと年代物を思わせる建物が見えてきた。西洋のオペラを行うような劇場を思わせる雰囲気である。玄関口には『KEEP OUT』と書かれた建物に似つかわしくないテープが張り巡らされている。そこに近づき警察手帳を提示すると警官達は一同に敬礼をする。テープを潜って入ろうとすると、眼鏡をかけた中年男性が身体を揺らしながら近づき声を掛けてきた。
「わ、わたくし、この大学の学長を務めている山沖進と申します」
「警視庁捜査一課、冬馬甚五郎です。後ほどお話を……」
「どんな状況なんですか! 中の状況を教えていただけませんか?」
「……だから、後ほどちゃんとお話しします。捜査してみてからになりますから、少々お待ち下さい」
学長の言葉を遮るようにして館内へと向かった。後ほどお話ししますと言ったのは今の段階では甚五郎は何も知らされていないのである。唯一解っているのはコロシであろうと言う事ぐらいである。
中に入ると部下の北村の姿が目に入る。相変わらずのにやけ顔を携えている北村の向かいには、対照的なほど神経質そうな顔をした男がいた。偉そうにしているところから見ると、地に足着いていないキャリア組の若造であることは伺えた。
ところで、北村は警視庁の花形に居はするものの、24歳とまだまだ若い男である。実際ではキャリア組でもなければこんなスピードで花形の座に着くのは難しいのである。かといって北村はキャリアなどではないのだ。この大きな謎を甚五郎は抱えていたが、この後本人の口から明らかになるとは思わなかった。
「あ、警部。お早うございます!」
「君が冬馬警部か。私はT署捜査一課警部の石黒太です。よろしく」
北村の若々しい挨拶とは正反対に石黒と名乗るキャリアは対等以上の物言いで挨拶した。甚五郎は自分よりも年下の男に見下されたかのような態度が気にくわなかったが、グッとこらえて挨拶を返した。
「初めまして。警視庁捜査一課の冬馬甚五郎です。ところで石黒警部はどうして私の名前をご存じなのかな?」
わざとらしく畏まりながら聞き返すと、石黒は少し肩で笑い鼻につく声で答えた。
「ああ……そうでしたね。私、北村君とは大学時代の友人でしてね。今、ちょうど彼からあなたのことを伺っていたのですよ。それ以前にお名前は存じ上げていましたがね。不可能犯罪の事件で」
どうやら少し前に起こった事件のことを言っているらしい。実際は甚五郎が解決に導いたわけではないのであるが、警察官内では甚五郎の活躍により解明された物だとされている。
「今回もどうやら、不可能犯罪の臭いがぷんぷんする事件でしてね。是非とも冬馬警部の辣腕を拝見できるかと思いますがね」
あからさまに敵意をむき出しているのは解ったが、それでも挑発に乗ることなく「今回もうまく行くとは限りませんよ」と謙虚に答えて見せた。
挑発に乗らないので諦めたのか「先に関係者の取り調べを致しますので。失礼」と言葉を置き去って石黒は劇場から出ていった。
「すみません警部。あいつ礼儀知らずなもんで」
「かまわんさ。それより驚いたのは、お前があのキャリアと大学時代の友人だと言うことだな。お前が警視庁の花形にその年齢で籍を置くのも関係があったりするのか?」
冗談めかして言ったつもりがどうやら的を得ていたらしい。北村はにやけた目を見開き驚いている。
「何だ、当たりなのか?」
「はい。僕はキャリアなんて物にはなりたくなかったんで、一般の公務員試験を受けて刑事を目指そうと思ったんです。警察学校を出て交番勤務から一年も経たないうちにこの場について不思議に思ってたんですけど。どうもあいつが裏で手を回してたらしいんです。親父さんが上の地位にいる人らしくて。息子の友人ならと気を遣ったらしいです」
警察はコレだから信用が下がるのである。身内商売とはよく言われるが、まさに現実そうなっているのだから言い返しようがないのである。しかし甚五郎は北村の地位に関する考え方を見直した。出世欲が強い若者がその地位に甘んじたくないと言う信念があるのが解り、しかもその人物が自分の部下にいることを誇りにさえ思えたのだ。
「お前は地で行く刑事になってくれそうでよかった。石黒のように地に足つかん刑事にはなるなよ」
「当然です。実は僕、あいつとは馬が合わない方なんですけど、妙に気に入られちゃって」
甚五郎はあまりそこには口を挟まなかった。かくいう甚五郎も北村とはあまり馬が合わないような気がしていたからである。そのことを悟られまいとして北村に事件のことを聞きつつ、犯行現場へと向かった。
「死亡したのは深山輝美、21歳。この大学の演劇部所属だそうです。発見時刻は昨日2月10日の23時15分頃。死因は今のところハッキリしてませんが、どちらかだと言うことだけは解っています」
「どちらとは何だ?」
北村の曖昧な言い方に少し腹を立て、きつめに聞き返した。
「死体は舞台上の垂れ幕を掛けるバーに首吊りの状態で吊されていたようです。死体には数カ所に及んでナイフで刺されたような痕があり、司法解剖で詳しく調べたいとのことでしたので、刺殺か、絞殺かのどちらかだと言うことです」
「死体は他殺と考えて良いというのはそのことだったのか。それで、ガイシャはどうしてこんな所にいたんだ?」
北村は必死に手帳のページを繰りながら言われた項目を探している。見つけた項目を指さしながら読み始めた。
「被害者が所属していた演劇部とミステリー研究会で、今度入ってくる新入生の為の公演を行うために、大学に泊まって練習していたそうです。昨日の練習は午後八時頃にうち切られて、その後は各自で食事をとって、集まる者だけ集まってカードゲームをやったり、マージャンをやっていたそうです」
「ガイシャを最後に見かけたのはいつなんだ?」
「練習をうち切った18時45分です。その後、被害者だけが姿を現さなかったので、自宅へ帰ったのだと思ったそうです。自宅と言っても下宿で、学校からは歩いて15分ほどの距離になるそうです」
頭の中で甚五郎は整理した。18時45分に深山を最後に見かけ、23時15分に深山を発見した。と言う事は犯行時刻はその間と考えて良さそうである。そのことを手帳に書き留めると、現場の中を見まわした。
舞台上には垂れ幕を掛けるためのバーが、甚五郎の頭より上の位置で止まっている。甚五郎は身長が180cmと大柄であるが、そこからさらに70cmほど上にバーはあった。バーの中央部からはロープが垂れ下がっており、甚五郎より少し上の部分に首をかけていたであろう輪が位置していた。
「ガイシャの身長はどれくらいだ?」
「160cmくらいだそうです。舞台から宙につられた足の高さまで40cmほどあったそうです」
「それにしても、このバーの位置が変だな。コレで一番上まであがっている状態なのか?」
「舞台袖に操作盤がありまして、それを押すとまだあがると思いますよ」
そう言いながら北村が舞台袖を指さすとそこには灰色の操作盤らしきものが見えた。近づいてみると色々な操作パネルが付いており、どのボタンを押してよいか解らなかったが、とりあえず『上』の印が付いたボタンを押してみた。
どうやら違うようである。一応どの操作ボタンなのか確かめるべく『下』も押してみる。すると緞帳が下がってきた。
「警部、違いますよ。右側にあるボタンです」
北村は舞台中央辺りから指さしているが、甚五郎にはどれか解らなかった。
「コレか?」
今押していたすぐとなりのボタンを押すとどこかで作動音が聞こえたが、どの装置かすぐに判断できなかった。
「違いますよ。それは外のカーテンを閉めるボタンです。もっと右にあるやつです」
北村は舞台中央から少し操作盤の方に近づきつつも、やはり離れた位置から指さすだけで解りづらい。
「どれだ、これか?」
今押していたボタンから二つ飛ばしに位置するボタンを押してみる。
「うわ!」
北村の方から小さく発せられる声が聞こえたため甚五郎はそちらに目をやると、北村はバーに手を掛けて少しもがいている。
「警部! それは奈落の下降ボタンです! 早く奈落を上げて下さい!」
甚五郎は奈落の下降ボタンを押し続けていたことに気付き慌てて手を離す。しかし、手を離したためどのボタンを押していたのか忘れてしまい、とりあえずめぼしいボタンを押し続けてみた。
しかしそれが北村にとって不幸を招いた。甚五郎が押したのは、初めに求めていたバーの昇降ボタンで、今求めている奈落の昇降ボタンではなかったのである。甚五郎が慌ててボタンから手を離すと、北村を吊り上げたバーは突然停止し、その反動で北村は奈落へと直下したのである。
「……ぶぇ!」
舞台の中央部からは気味の悪いうめき声が聞こえた。急いで奈落のそばに駆け寄り奈落を覗き込むと、北村は足を抱え込んだまま身動きを取れないでいる。
「……大丈夫か! 北村!」
その声を聞くと北村は奈落の底から甚五郎をものすごい表情で睨み付けている。
「今すぐ引き上げてやる。ほら、手を出せ!」
北村の眼光に少し罪悪感を感じ、奈落にいる北村に手を伸ばす。北村はその手をしっかりと掴んでいた。甚五郎は体が大きいだけではなく腕っぷしにも自信があったため楽々と北村を引っ張り上げていった。しかし、そこでさらなる不幸を北村が襲った。舞台上のライトで手に汗を滲ませていた甚五郎の手から北村の手がぬるりと外れたのである。
「……警部うぅぅ……」
北村が発した声の刹那、奈落に身体を打ち付ける音が響いたのは言うまでもない。この情景で甚五郎は芥川龍之介の著作『蜘蛛の糸』のカンダタの映像が頭に流れてきた。
2
北村はそのまま救急車に乗せられて病院へと搬送されていった。
現場の状況があまり飲み込めないうちに北村が居なくなったため、T署の石黒の元へ向かおうとした。あまり気が進まなかったので足取り遅く向かっていると、そこには甚五郎の見慣れた顔があった。
「冬馬君じゃないか。久しぶりだな」
「大岡さんですか!」
大岡と呼ばれた160cm半ばの男は人懐っこそうな笑みを浮かべて甚五郎に近づいてきた。
「立派になったものだな冬馬君。今では警部だそうだな」
「はい、大岡さんにしごかれたお陰で、警部なんかやっとります」
大岡は甚五郎の警視庁配属前の所轄署で世話になった刑事である。現場百編をモットーにしている甚五郎は、実は大岡の受け売りでその行動をモットーにしているのである。しかし真似ているのにも理由があって、大岡が迷宮入りになるであろうと言われてきた難事件を真実の元に照らし出す様を横で追いかけていたからである。
「病院に運ばれたのは君の部下かね?」
「……はあ、恥ずかしながら」
自分の失態を棚に上げて申し訳なさそうに甚五郎は言った。
「謝らんでもいい。無事でよかったじゃないか」
「そうなんですが、肝心の現場の状況を完全に聞く前に運ばれたものでして……」
「それならそうと早く言えばいいじゃないか。私が教えてやるものを」
「あ、ありがとうございます」
本心から嬉しかった。石黒に聞きに行かなくてすんだこともあるが、昔のように大岡と捜査できることが嬉しかったのである。
「で、何から話そうかな?」
「現場の方でお願いできますか?」
甚五郎の言葉に大岡は軽く頷き、劇場内へと足を向けた。
*
「この血痕は一体何なんですか?」
元に戻した奈落の脇に離れるようにして血だまりが見られた。血痕は奈落に広がる血痕から飛び散った形には見えなかったため不信に思ったのである。
「……ふむ。ここには被害者の切断された指が一本放置されておった」
「指……ですか?」
「被害者の手から欠損していたものだったから間違いないだろう。全く、めった刺しにしたり、吊し上げたり、指を切断したり。昔の犯罪では考えられんほど残忍なやり口だ」
口惜しそうに大岡は呟いた。
「一体なんだってそんなことをしたんでしょう。指を一本だけ……」
「わからんな。今は写真だけだが、コレが奈落のそばに落ちておった」
写真に映っているのは大型のナイフと台所で使うようなゴム手袋であった。
「恐らくコレで指を切断し、体中を刺したんだろう。ゴム手袋は指紋をつけんためにやっておったんだろうが、内側から指紋が検出されるかもしれんから鑑識に回しておいた」
「そうですか。現場はどうなってたんですかね? 今いるこのままの状態だったんでしょうか?」
「いや、緞帳は下がってたよ。舞台上のライトもついたままだった」
「緞帳が下がって……」
「それから不可解なことがあるんだが……」
「一体なんですか?」
甚五郎は石黒の言葉を思い出した。『不可能犯罪』と確かそう言っていたが、それと関係するのかどうか思いあぐねていると、大岡は解答を口にした。
「この劇場から、この大学で言うクラブの文化部棟にかけて、第一発見者の比良平の足跡しかなかったそうなんだ」
別におかしな事など無いような気がする。犯人が比良平なら問題ないと思われる。しかし大岡の次の言葉で甚五郎の想像は否定された。
「死後硬直を調べたところ、被害者の深山輝美は昨日19時から20時までの間に殺されたんだろうと言うことだ。その時刻には発見者の比良平には完璧なアリバイがあった。部員達が証言している」
「と言う事は、第一発見者の比良平は彼女を殺せなかったと?」
「そうなるな。まあ、深いところまではわからんが、外部犯ではないとのことらしい」
「な、何故そうと言えるんです?」
「大学のクラブ棟の門の辺りに警備員室があったのは知ってるな?」
朝の警官のやり取りで全く記憶になかった。すまなそうに大岡を見やると、大岡はそれに気付いたのか少しため息をもらしつつ口を開いた。
「とにかくあるんだが、今日は演劇関係の人間だけが泊まるから入り口の警備員室に2名常駐していたらしい。門を通ったのは登録されている演劇関係の人間だけだったそうだ」
「どうしてそんなことが解るんですか?」
「門を出入りする際、学生証を提示させていたらしいからな。見回りをした後からずっと居るらしいから、大学内には演劇関係の学生と警備員二名しかおらんかったというわけだ」
「警備員の二人にはアリバイがあるんですね?」
「一人が見張っている間は片方が休憩しとったらしいが、テレビを見ていたときも片方が外に出ることはなかったそうだ」
人間関係で言えば、演劇部関係の人間以外では犯行が不可能と考えていいと言うことだろう。まだ全体の把握がしきれていないため、関係者に会って話を聞くことに決めた。
「大岡さん、関係者の聴取にも同行願えますか?」
大岡は無言で頷くと甚五郎を先導するように演劇場の出口へと向かった。